<ふくしまのオタネニンジンを立ち上げた歴史上の人物>


蒲生氏郷 1594年人参の種を播く

蒲生氏郷公肖像画
 秀吉の家臣であった蒲生氏郷(がもううじさと)は、朝鮮出兵(文禄の役)の際、持ち帰った高麗人参の種子を福島会津城下の門田村小山に植え付けたと言い伝えられています。
 氏郷は伊勢から陸奥国会津に城主として移ったばかり、会津の産業振興に努めます。その一つが人参の栽培でした。
 緯度が朝鮮に近く、冷涼な気候である会津は高麗人参の栽培に適しているのではないかと期待されましたが、芽を出すことはありませんでした。
 しかし、氏郷のこの思いは、後に福島会津が高麗人参の一大産地となり、会津産高麗人参が会津人参として知れ渡り、藩の財政を担うに至り成就します。




松平正容 1728年幕府に人参種子の下付を乞う
松平正容公肖像画
 会津三代藩主松平正容(まさかた)は、徳川八代将軍吉宗のオタネニンジンの国産化の動きにいち早く呼応します。
 正容は、幕府に人参種子の下付を乞い、自ら開設した御薬園に播種し栽培を試みます。
 御薬園には、現在もオタネニンジンを含め約400種類の薬草薬木が栽培されています。
 




松平容頌 1795年人参栽培の安定化に成功
松平容頌公肖像画
 栃木日光東照宮領の今市では、ついにオタネニンジンの安定的な栽培に成功します。
 五代藩主松平容頌(かたのぶ)は、1766年幕府より人参種子を譲り受けて、城下門田諏訪の原で栽培を開始します。
 1795年には、江戸から薬物学者の佐藤成裕を招聘し、農民へ人参栽培の普及に努めます。天明の大飢饉で破たん寸前の藩財政再建のため、34歳の田中玄宰を家老に登用し人参事業の推進を指示します。




田中玄宰 1803年人参栽培の事業化
田中玄宰公肖像画
 松平容頌より藩の財政再建を託された会津藩家老の田中玄宰は、人参事業を含め多くの殖産興業を推進します。
 1803年、出雲より大量のオタネニンジンの種子を取り寄せ、藩内に広く栽培を奨励します。
 一方、城下の下名古屋に「人参役場」を設置し、栽培、収穫、製造、販売にいたるまで藩の統制下に置き、厳しく管理しました。鑑定方による厳しい審査を受け等級付けがされました。これにより会津人参の品質は大幅に向上していきます。




足立仁十郎 1830年清国への輸出を開始
足立仁十郎氏肖像画
 会津藩のニンジンの販売を一手に許されていた足立仁十郎は、1830年幕府から輸出の許可が下りると即座に清国に輸出を開始します。
 品質の良い会津産高麗人参は人気が高く、最盛期には2万斤(1.2トン)もの輸出に達し、仁十郎は大きな富を築きます。財を成した仁十郎は会津藩に巨額の献金をします。
 会津藩の財政も豊かになり、人参によって増え続ける財力は、会津藩主松平容保に京都守護職の地位を与え、新撰組の活動や戊辰戦争で使われたゲーベル銃やシュナイドル銃などの資金源となります。しかし、戊辰戦争に敗れ会津鶴ヶ城開城となり江戸時代の終焉を迎えます。そして人参事業は藩の統制から民間に開放されました。

 

ふくしまのオタネニンジン(高麗人参)について



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